白藍塾の文章教育

「樋口式」をよく理解する

イエス・ノーを明確にしてこそ、物事を分析的に捉えられる

樋口式小論文に対しては、賛同の声とともに批判も多くあります。批判のほとんどは「小論文はイエス・ノーではない。○×で答えられないことを書くのが小論文だ。イエス・ノーでは高いレベルの小論文は書けない」「物事はイエス・ノーでわりきることはできない。わりきれないことをしっかりと考え、様々な思考を示すのが小論文だ」というものです。

確かに多くの物事はわりきることができません。とりわけ、人の心、自然、経済など、わりきって捉えようとしてもとらえきれません。世のなかの多くのことが「一概には言えない。それを使う人と状況によって異なる」というのが現実的にはもっとも正しい答えです。「Aが正しいか、それとも反Aが正しいか」という問題の場合、ほとんどの現実的な対策としては、二つの案の中間案であったり、折衷案であったりするでしょう。

しかし、だからといって、物事をわりきることをせずに、カオスのままにしていては、いつまでも物事を整理して捉えることができないのではないでしょうか。物事をわりきるべきではないというのは、物事を分析的に捉えるべきでないと言うに等しいでしょう。分析的に捉えるということは、一つ一つの項目についてイエス・ノーを明確にし、その意味を明確にすることに始まります。イエス・ノーを明確にしないで、意味を明確にすることはできません。分析的に、つまり知的に物事を考えることができないのです。

小論文は、ある問題を通して、自分の知性と知識をアピールするゲームである

確かに、現実的には「AとBの中間であるべきだ」「場合によって異なる」というのが正しいにしても、それでは論として、あまりに説得力がありません。小論文はある問題についての理念を答えるものです。具体的にどうするべきかを明確にする前に、理念としてどちらであるべきか、これからどちらの方向に進むのが好ましいことなのかなどを判断することが求められています。そうすることで頭の良さをアピールするのが小論文の意味なのです。

私どもは小論文というのは、ある問題を通して、自分の知性と知識をアピールするゲームと考えています。ありふれた切り口で、物事を分析し、判断に説得力を持たせ、それによって能力を示します。そうしてこそ高度な学びを得る大学への進学も認められるのだと考えます。

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