文章教育コラム

「文は人なり」にもの申す

樋口裕一『ホンモノの文章力』集英社新書2000年、p13~27より

18世紀フランスの博物学者ビュフォン
18世紀フランスの博物学者ビュフォン

「文は人なり」という常識

「文は人なり」と、よく言われる。

これは、18世紀フランスの博物学者ビュフォンのアカデミーへの入会演説のなかの「文体は人間そのものである」le style est l'homme même.という文に由来する言葉だ。もともとは、「文章の内容は普遍的であるが、文体については書いた人間そのものだ」といったほどの意味なのだが、現在ではもっぱら、「文章は、それを書いた人の本当の姿を表す。だから、文を見ただけで、それを書いたのがどんな人かわかる」という意味で使われているようだ。そして、この言葉は文章を書いたり読んだりするときの、いわば「常識」となっていると言っていいだろう。

私は何も、この「常識」に楯突くつもりはない。確かに、この言葉は正しい。

文学の楽しみの一つも、そういった点にあるといっていいだろう。たとえば、梶井基次郎の短篇など、ストーリーらしいストーリーはないが、多くの読者はその文体に潜む作者の感性や世界観に共感する。梶井基次郎だけではない。三島由紀夫も大江健三郎もドストエフスキーもプルーストも、ストーリーを楽しむ以上に、文体に表れる「人間」を感じとって、そこに魅力を発見するのだ。

いや、そもそも、大学入試や入社試験などで、文章を書かせる問題を出して、その人物を判断しようとするのも、書いた人の人柄や考え方が文章に表れるからにほかならない。

とはいえ、私は「文は人なり」という考えが重視されすぎている現在の状況には大いに疑問を持っている。少なくとも、日本では、「文は人なり」という考えが広まりすぎて、文章が歪んで考えられているのではないかと思うのだ。

「文は人なり」の二つの問題点

「文は人なり」という常識には、次の二つの問題点があると言えそうだ。

第一の問題点は、ほんとうに文章だけでその人がわかるわけではないということだ。

私は大学受験小論文・作文の通信添削塾を主宰している(*1)。主として大学受験をめざす生徒の小論文を大量に読んで添削する。

生徒の文章を読む場合、文字の丁寧さや文章の内容から、私は書いた人間の人物像を無意識的に思い浮かべる。そして、「生意気そうだから、ここはひとつガツンと叱っておいて、やる気を出させよう」「気が弱そうな生徒だから、おだてておこう」といったテクニックを用いてアドバイスする。ところが、その「読み」が時にはずれる。文面から判断して生意気だとばかり思っていた生徒が、傷つきやすい生徒で、私のアドバイスに対して、「なにくそ」と思ってくれるどころか、めげてしまうことはしばしばある。そういう場合は、後で生徒を慰めるのに苦労する。

大学に合格した生徒が入学後、挨拶に来てくれることもある。そのとき、それまで文章を通してしか知らなかった生徒を初めて目の当たりにすることになるが、そこでも、しばしば予想を覆される。

一度など、いつも反体制的で文学的なことを書く女の子で、早稲田の第一文学部(*2)に合格したというので、厚化粧でもしていそうなひねた文学少女だとばかり思っていたら、現れたのは、まるで中学生のような真面目な女の子だったので驚いたことがある。そして、話をしてみると、書いていた文章からは想像もつかない素直なことを言うので、またも驚いた。

とりわけ若者の場合、文章を書く際に他人の思想の受け売りになりやすい。読みかじったこと、聞きかじったことを、あるいは、国語の試験問題で読んで知ったことをちょっとした思いつきで書いてしまう。そうしたことがたとえばニーチェの思想だったりすると、過激で傲慢な文章になりかねない。「文は人なり」ということを信じてしまうと、大いに誤解することになってしまう。

いや、そもそも文章を読んだだけで、その人物を理解することなど、どだい無理なのだ。いや、文章だろうと何だろうと、何かによってその人物の本質を理解した気になること自体、無理があると思われる。

だが、もう一つの問題点のほうが、もっと重大だ。

日本では、「スポーツを通して、人生を学び、人作りをする」と考える人が多い。スポーツと人生が重ね合わせて考えられている。だから、野球の監督が人生論を語ったり、野球チームが企業となぞらえられたりする。だが、そうなると、スポーツの楽しみ、スポーツの醍醐味が忘れられてしまう。それと同じことが文章にも言えそうだ。「文は人なり」ということを強調して、文章を人生の結果とみなすと、文章を通して他人の人生を判断しようという方向に進んでしまう。文章を工夫することを罪悪とみなし、ありのままの自分を示すのが文章だという思い込みを育ててしまう。

これこそ、「文は人なり」という考え方の最大の欠点と言えるだろう。

「文は人なり」の理念とは?

おそらく、読者諸氏のほとんどが、小学校・中学校時代、作文を書かされた経験をお持ちだろう。そして、その際、「ほんとうにあったことや自分のほんとうの気持ちをありのままに書け」「飾らずに自分の言葉で書け」と習ってきたことを覚えておられるだろう。日本の作文教育において、何よりも、内容的に嘘をつかないこと、自分らしい言葉で綴ることが求められてきた。作り話や小説の真似などは論外、背伸びせず、工夫もせずに、現在の自分を表現することが求められてきた。

そうしたことは、先に示した「文は人なり」という考えが文章を書く楽しみを奪ったがゆえの結果と言えるだろう。「文は人なり」と考えるから、ありのままの自分を出すことが文章に求められる。文章が、人生の一つの結果とみなされるわけだ。

ここには、戦前からの「生活綴方」運動の影響があったと言えるだろう。生活綴方は、1930年代から小砂丘忠義らによって全国に広まった生活に根づいた作文教育であり、成田忠久の「北方教育」、無着成恭の「山びこ学校」などに受け継がれた。いずれも貧しい自分たちの生活をしっかりと見つめなおして、自分の言葉で生活を、そして自分の考えを文章化することを目的とする。

こうすることで、当時の貧しい子どもたちは、文章を書くという自己表現の手段を手に入れて、生活を客観視できるようになった。地についた自分の意見を持つようになった。そして、国家による近代化が農村にまで定着し、西洋からの借りものであった数々の思想や制度を国民が自分のものにできたのだ。おそらく、この運動のおかげで、権利や義務、自由という考えが農村部にまでかなり広がったと考えていいだろう。そして同時に、農民が自意識を持って権力を監視できるまでに成長するためのこやしにもなったことだろう。日本に民主化を定着させるのに大きな力があったことは言うまでもない。

したがって、生活綴方運動の歴史的役割は高く評価するべきだろう。だが、そうした考え方が、今もまだ続き、あいかわらず「ありのままに書け」「自分の言葉で書け」と指導している状況には、問題があると言えないだろうか。

「ありのままに書け」の欺瞞

まず、「ありのままに書け」という現在の文章理念そのものが不可能なのだ。

書く、ということは、現実の一部を主観によって切り取り、脚色することだ。もし、ありのままに書いていたら、起きてから寝るまで、起こったことや考えたことの何から何までも書かなくてはいけなくなる。そんなことができるはずがない。ある特定の現実を選ぶということは、すでにそれだけで、ある事柄を誇張し、おもしろくする、ということでもある。書くからには、必ず、主観によって歪める必要がある。

それに、「自分の考えていることを素直に書け」というのも難しい。何か文章を書こうとする前には、ほとんどの人は、その題材について少しも考えたりはしていないのだ。題材を与えられて、やっとその問題について考え始める。大学や会社でレポートを書くように促されたり、試験場で課題を出されたりして、その問題に真剣に取り組み始めるのが、むしろ現代では普通の行為だ。こうして、ああだこうだと題材をいじり、考え、時には取材をして、問題について思索を深める。一般にどのように捉えられているかを検討し、そこに自分らしさをつけ加えようとする。

つまり、題材を与えられる前には、実は考えというものには形はないのだ。むしろ、書こうとすることによって、自分の感想がはっきりしてくる。だから、「自分の考えを素直に書け」ではなく、「書くことによって自分の考えを作り出せ」と言うほうが、書くという行為にふさわしい。「書く」と「考える」を別のこととみなし、「考えた結果を書く」とみなすよりは、「書く行為=考えること」とみなすほうが、現実に近いのではあるまいか。

そればかりではない。書いている最中にも、一つの接続詞をつい使ってしまったために、その後の文章が、それまで書こうとしたことと違った方向に進んでしまったという経験はほとんどの人が持っているに違いない。夜中、ラブレターめいたものを書こうとして、思ってもみないような熱烈な文章になってしまった、ということもあるだろう。

手さぐりで、少しずつ字を埋めていってこそ、文章ができあがっていく。不定形な、もやもやとしたものを形にする段階で、ある事実を強調したり、誇張したり、脚色をしたりする。そして、だんだんと自分の考えが成り立っていく。それが書くということなのだ。

そうした「書く」という行為の本質を、「ありのままに書け」「自分の考えていることを素直に書け」という理念は無視している。

そして、もう一つ、「ありのままに書く」ことの弊害がある。文章がどうしても、ありきたりで道徳的になってしまうのだ。

つまり、「ありのままに、素直に書け。そうした文章に本当の姿が表れる」という前提の下で書くと、文章が人物を示すための指標になってしまう。つまり、文章が思想調査の材料になってしまう。書くほうもそれを意識して、きれいごとを書いてしまう。「良い子」を演じようとする。その結果、むしろ文章に個性が発揮されなくなってしまう。就職試験が紺のスーツ姿になるのと同じような現象が起こるわけだ。

そもそも、正直に偽らずに書いたとして、どれほど、読むに耐える文章になるか、あやしいものだ。人に読んでもらうのだから、ありきたりのものではない点がほしい。「へえ、そうだったのか」「なるほど、こんな見方があるのか」という発見を読み手にさせる必要がある。が、偽らずに書くと、それが示せない。

マスコミや教育の影響だろうが、現代では多くの人が同じような意見を持っている。「自然環境」についての意見を求めると、10人中10人までが、「自然を破壊しないで、もっと大事にしよう」と書く。それをひねって、もっと違ったことを書いてくれないと、読み手も楽しみを感じないのに、みんながありきたりの良い子ぶったことを書いてしまう。

つまり、現代では、「ありのままの自分」というのは、「マスコミや教育によって作られた自分」でしかないのだ。「書く」ことによって、それを見直し、もっと別の自分を作っていくことのほうが、むしろ、重要なことと言えるだろう。

「自分の言葉で書け」は書く楽しみを奪う

従来の文章教育で言われるもう一つの理念「自分の言葉で書け」も、大いに問題がある。

自分の言葉で書く、というのは、飾ることなく、借りものでないふだん使い慣れた言葉で書くということだ。言い換えれば、借りものの思想でなく、生活実感のある言葉で自分の日常を見直し、自分を確立するということだろう。

だが、書くということは、書かれている内容にふさわしい表現を探し、言葉を工夫するということにほかならない。手紙や日記などの場合、もちろん、自分の生活実感のある言葉で書くほうが好ましいこともある。しかし、そうでない場合も多い。

自分の言葉で書こうとすると、表現の工夫という、文章を書く上でのもっとも大事な欲求を否定してしまう。文章を書く上で、文体のテクニックを工夫するのは大きな楽しみだ。比喩を使ってみる、誇張表現を使ってみる、くだけた表現を使ってみる、他人の口真似をしてみる、そうした文章の遊びこそが、文章を「書く楽しみ」なのだ。それを取り上げてしまっては、文章を書く最大の楽しみがなくなる。

「私は悲しかった」と言うにしても、「ひとりぼっちで知らない町に置き去りにされたように悲しかった」「悲しみのあまり、僕の心はその場でへたり込んでしまった」などと書くほうがリアリティがあるし、個性的な表現になる。そして、少しでも手垢の付いていない新しい表現を見つけることで、自分らしい文章ができあがるはずなのだ。

文体のテクニックというのは、心にもないことを上手に表現するための単なる言葉の綾ではない。単なる遊びでも、嘘でもない。言葉という粘土を使って、いろいろと形を試みては日本語の秘密を探ることなのだ。こうしたテクニックを使うことで、表現の幅が出る。そして、それを続けることで、語彙が増え、感情が豊かになり、自分の幅が広がるのだ。

「文は自己演出なり」

私は、これまで書いてきたとおり、「文は人なり」という常識からそろそろ脱するべきだと考えている。そうした私の提唱する文章理念を、「文は人なり」という言葉をもじって言えば、「文は自己演出なり」となる。

文章はありのままの自分を示すものではない。人生の結果を示すものでもない。

むしろ、自分をどのように見せたいかを決めて、「見せたい自分」を演出するのが、文章だ。つまりは、化粧のようなものだ。文章を工夫し、知的な自分や真面目な自分や個性的な自分を演出する。そして、自分をアピールする。それが「書く」という行為なのだ。

会話では、どうしても考えが顔に出る。即座に相手の言葉に反応することはできない。どんなに頭の回転の速い人でも、物事を理解し、自分の立場を考え、それを深めて判断するには時間がかかる。

その点、文章を書くのなら、時間をかけて、じっくりと考えられる。そして、文章を練り、いじり、テクニックを磨いて、その上で工夫を重ね、「見せたい自分」を示すことができる。つまり、装い、自己演出することができる。

もちろん、ありのままの自分を見せる必要はない。ありのままの自分でなく、あるべき自分、一歩レベルアップした自分を見せるべきなのだ。自分の言葉で書く必要もない。どしどし工夫し、人のテクニックを盗み、自分なりのテクニックを開発して、「あるべき自分」をアピールするべきなのだ。

たとえば、小論文やレポート。そして、上司に提出する企画書や販拡計画書。これを単なる報告と考えるべきではない。

大学の入試や入社試験で小論文が課される場合、もちろん、小論文は能力を見るための材料だ。言い換えれば、小論文を書く側からすると、自分の能力の高さを示すのが、この科目なのだ。

小論文試験というのは、言ってみれば、頭の良さを演出するゲームなのだ。それがほんとうの自分の意見である必要はない。いつも考えていることと別の主張をしてもかまわない。ある問題について論じるという形で、頭の良さ、知識の多さ、判断力の的確さをアピールするのが、小論文という科目なのだ。

そうしたゲームを無視して、自己表現として小論文を書いても、凡庸な小論文しか書けないだろう。いつも考えていることを否定し、もっと別の考えはないか、もっと鋭く見せる方法はないかと考えて、アイディアを探す。そして、見つかったら、それを書く。そうすることで、様々な考えを身につけ、自分の考えを明確にしていく。それが小論文というものの意味だ。

大学のゼミや会社で書かされるレポートも同じだ。単に物事についての状況を書くだけでは、少しもアピールできない。自分なりの分析をいれ、鋭く背景を示してこそ、上司の評価を得ることができる。もちろん、自己主張ばかり激しい「目立ちたがり」のレポートで裏づけがなければ評価は低い。が、しっかりした裏づけをした上で、鋭さをアピールしていれば、高い評価を受けることだろう。

最近、大学の社会人入試や推薦入試、そして入社・転職試験で提出させられることの多い「志望理由書」も、一言で言えば、「熱意のある自分」を演出するための文章だ。大学や会社が仲間にしたいと思うような熱意にあふれた人間であることをアピールするわけだ。 そのほか、エッセイや作文は、「個性と感受性に満ちた自分」を演出するためのものだ。

初めに思いつくありふれたアイディアをひねって、もっと感受性をアピールできるように、読み手が感動を覚えるように工夫してこそ、優れたエッセイや作文になる。

手紙も同じだ。手紙は単にお礼を伝えるためだけのものではない。手紙によって、相手に親密な空間を作り出す必要がある。言い換えれば、手紙は「仲間」である自分を演出する手段なのだ。

文章を楽しもう

文章のテクニックを知って、それを楽しみ、文章で遊ぶことで、いろいろな自分を演じることができる。そうすることで、これまでにない自分を発見できるかもしれない。これまで、「これが自分だ」と思っていたことが覆されるかもしれない。

文章をいじっているうち、思いもかけない方向に文章が進んでも、初めに予定していたのとはまったく違ったことを書き始めても、それを「不純なこと」として切り捨てるべきではなかろう。そうして発見した考えも自分の考えなのだ。そして、そうやって様々な考えを試し、考えを広げてこそ、自分の世界が広がっていく。

文章を書くということは、ある意味で、未知の自分を求めて、自分を開拓する冒険でもある。化粧をすることによって思わぬ自分の魅力を発見し、自分を違った角度から見ることができるようになる。それと同じように、自己演出によって、新しい自分を発見し、自分の領域が広がっていく。

だが、そのためには、まず、楽しむことだ。文章を書くことを楽しみ、自己演出を楽しみ、読み手を楽しませたり、騙したりする喜びを味わうことだ。

そうしていくうちに、だんだんと文章力が身につくことになる。そして、同時に自分が鍛練されることになる。

  • *1 白藍塾を指す。白藍塾は、現在、小学生、中学生、高校生・高卒生、ビジネスパーソンを対象とした4つの小論文・作文通信講座から成っている。
  • *2 早稲田大学の第一文学部は、現在、文学部と文化構想学部に再編されている。
コラム一覧に戻る