子どもを本好きにさせるための
十か条

一か条 自分が昔感動した本を無理強いしない
今の子どもには、本を読むことのほかに、もっと気楽でもっと楽しいことがある。そのうち、本を好きになるだろうと気長に子どものやる気を待っても、子どもが自然に本好きになることはめったにない。何かの形で本に関心を持たせることが必要だ。
本に限らず、何かを好きになるかどうかは、ほとんどの場合、「出会い」にかかっている。たまたま、自分が求めている時期に求めているものと出会うと、それを好きになる。少しタイミングが狂うと、一生、縁を持たなくなることもある。
したがって、低年齢の子どもの場合には読み聞かせをするなどして、出会いを作る努力を親がするべきだ。
小学生になってからは、子どもを図書館に連れていったり、本屋に寄ったりするのが有効だ。そうすることによって、子どもたちは本に親しむ。本に対する関心や尊敬を抱くようになる。少なくとも、本を日常的なものと認識するようになる。
ただし、昔、自分が感動した本を読ませて、本好きにしようとしてはいけない。自分が味わった感動をお子さんにも味わわせたい、という気持ちはわかるし、確かに、それがうまくいったときには、感動を子どもと語り合うことになって、心が通じ合うだろう。親と子の語らいも生まれる。が、そういうことはめったにないといって間違いない。
今は時代が違う。昔、感動した本も、今では時代遅れのものであることが多い。たとえば宮沢賢治は永遠の名作ではあるし、ぜひ子どもにも読んでほしい作家だが、多くの子どもに、これはとっつきにくい。そうしたものを、まだ本を読みなれていない子どもに読ませようとすると、むしろ、子どもは「押し付け」と受け取ってしまう。つい焦ってしまって、子どもが十分に成熟していないのに、無理な本を与えがちになってしまう。そして、それがつまらないと、「本というのはつまらないもの」というふうに考えてしまって、むしろ本嫌いにさせてしまう恐れがある。
本は消化できる時期に読みたい本と出会ってこそ、実になり、感銘する。十分に消化できる時期になって、無理強いしないで、それとなくかつて自分が感動した本を与えてみる事が大事だ。
二か条 文芸書だけが本と思ってはいけない
多くの親が、質の高い絵本や「文芸書」を子どもに与えようとする。そして、それに子どもが興味を持たないために、嘆くことが多い。
もちろん、質の高い物語は情操を育てる。やさしい心を育む。感受性豊かな心を作る。だが、とりわけ男の子は、そのような物語を好まないことが多い。もっと冒険に満ちた物語や、親が眉をひそめるような物語のほうに興味を持つ。低学年の子どもは物語よりも、乗り物や機械類に、中学生になっても、漫画やゲームにばかり関心をもつものだ。
文芸書だけがよい本ではないということを、認めてほしい。乗り物や昆虫の図鑑からも、人によっては時刻表からも、様々な想像をはぐくむ。いや、それどころか、漫画も、子どもにとっては想像力をたくましくし、物事について考え、大人の知識を吸収するよい機会だ。漫画によって、子どもたちはわくわくするような世界を知る。
また、ゲームの攻略本も、文字から情報を受け取って、それを自分なりに試してみる、そして、場合によってはいくつかの攻略本を読み比べて、質を判断する。これは、きわめて高度な読み取り作業だといえるだろう。
漫画や攻略本は、本を好きになる第一歩として考えてほしい。これらを十分に読みこなしてこそ、もっと高度な本に達する。むしろ、漫画や攻略本からもっと高度な本に進むように、たとえば、『信長の野望』などのゲームに関心を持ったら、信長の本を読んでみるように、それとなく勧めることで、漫画やゲームを本好きにするための第一歩にできるはずだ。
三か条 「ためになる本」という意識を見せてはいけない
親はどうしても、「ためになる本」という意識を持って、それを子どもに読ませようとする。だが、そうである限り、子どもは親に不信感を持ちつづけるだろう。
本は基本的に、「ためになる」ことを目的にして読むものではない。自分たちが本を読んだときのことを思い出してほしい。少なくとも本当に自分の身についた本というのは、「ためにならない」本ではないだろうか。こっそり読んだ本、わくわくして大人の世界をのぞいた本こそが、今でも鮮明に記憶している本のはずだ。それは今の子どもも変わらない。
もちろん、本は「ためになる」。しかし、それは結果だ。ためになることをめざして読むのでなく、楽しみで読んだものが結果的にためになっているにすぎない。それを混同しては、本の楽しさがなくなってしまう。少なくとも、親は子どもに、「ためになる本」というそぶりを見せるべきではない。本を読むときには、「おもしろいから、読んでごらん」と薦めるべきだ。そして、「ためにならない」と思われる本であっても、子どもが楽しんでいるのであれば、できるだけ大目に見るべきだ。
いや、むしろ、「ためになる本」というのは、二流の本なのだ。「ためになる」のは、参考書や教科書であって、それは単に「情報」を書いた本でしかない。だが、本当によい本というのは、情報を伝える本ではなく、くめども尽きせぬ内容を持つ本だ。そして、それは、楽しい本、喜びに満ちた本なのだ。
もちろん、いつまでも幼稚な本ばかり読んでいるようであれば、少し高レベルの本を読むようにアドバイスするべきだ。あるいは、子どもが自分から参考書のような「ためになる本」をねだったときには、喜んで買い与えるべきだ。だが、できるだけ自然に任せるほうが好ましいことが多い。本を読んでいるうちに、多くの子どもはだんだんと高度な本を読むようになる。本当におもしろい本が結果的に本当にためになる本だということが、だんだんとわかってくるようになる。
したがって、本を薦めるとき、「ためになる本」という基準を、ひとまず忘れて、「楽しい本」「おもしろい本」を考えるべきだ。
四か条 一度にたくさんの本を買い与えてはいけない
本を好きになるためには、まずは好きな分野、好きな作家を作ることだ。
たとえば、私が本を好きになったのは、音楽がきっかけだった。小学校五年生のときに音楽の時間に聞いた鑑賞曲に感動して、クラシック音楽好きになった。中学生のころはいっぱしのクラシック音楽通だった。そして、そのころ、作曲家が主人公の大小説があると知って『ジャン・クリストフ』を読んで、文学を知った。そして、しばらくはロマン・ロランが大好きになって、『魅せられたる魂』『ピエールとリュース』などに読みふけった。そして、その後、同じく作曲家が主人公の『春の嵐』(ヘッセ原作。原題『ゲルトルート』)を読んで、今度はヘッセのファンになった。それからは、チャイコフスキーのオペラの原作になったプーシキンの『エウゲニ・オネーギン』やモーツァルトのオペラの原作になったボーマルシェの『フィガロの結婚』と読み進んで、ロシア文学のファンになったり、フランス文学のファンになったりした。そうするうち、いつのまにか、文学好きにもなっていた。
誰の場合も、このような経過をたどるのではあるまいか。
つまり、何かが大好きになって本に接し、そのあと歴史好き、ミステリ好き、SF好き、旅行記好き、文学好き、というような特定の分野の本のファンになっていく。あるいは、西村京太郎ファン、松本清張ファン、三島由紀夫ファン、源氏物語ファン、思想ファンになっていく。こうして、本という巨大な山脈に入りこんでいくのだ。
したがって、本好きになるためには、特定の領域のファンになることが大事なことだ。つまり、子どもを本好きにしたかったら、子どもが何かの本のファンになるのを手伝うべきだ。
もし子どもがスポーツに興味があったら、スポーツの本を与えるといいだろう。野球のルールブック、変化球の投げ方を説明した本、『イチロー物語』といった類の本でもよい。そうすることで、スポーツの本が好きになるだろう。そして、そうするうち、好きなスポーツエッセイストができるだろう。そうなれば、あとはだんだんと本の世界に引き込まれていく。
したがって、一時にたくさんの本を与えてはいけない。たとえば、「文学全集」の類の本を買い与えるべきではない。あるいは、シリーズものを数冊同時に買い与えるべきでもない。様々な領域の様々な作家の作品を集めたものが、本を好きにするきっかけになることは少ない。すでに本に親しんでいる人が、もっと体系的に読むために、あるいは未知の作家と出会うために読むのならよいが、そうでなければ、あまり意味がない。
少しずつ自分の興味のある分野の本を読み、一冊が好きになったら、それと同じ分野の、あるいはそれと同じ作家の本を読んでこそ、興味が広がっていく。
子どもが一冊の本のファンになったら、たとえそれが親にとってあまり気に入らない本であっても、それを後押しして、もっと好きになるように、もっと興味をもつようにバックアップするべきだ。
五か条 テレビやゲーム、SNS使用を無制限にさせてはいけない
私は、基本的には、子どもにはしたいことをさせるべきだと考えている。したいことをうまく好ましい方向に導くべきであって、頭ごなしに子どもに何かを禁止したり、強制したりすることは、私の流儀に反する。
が、テレビの見すぎ、ゲームのしすぎ、SNSへののめりこみには、歯止めをかけるべきだと、私も思っている。
もちろん、テレビにはすばらしい面がたくさんある。ゲームにもよい面はたくさんある。SNSも楽して役に立つツールだ。テレビもゲームもSNSも、子どもたちの世界では大きな位置を占めている。そして、ある種の知的遊びとして、テレビゲームには能力開発の面がある。SNSによってコミュニケーションを広げ、様々な情報を得たり、自分の考えを発信したりして能力を広げられるだろう。これらを禁止するべきだとは思わない。だが、テレビやゲームが子どもたちにとって悪影響を及ぼすことは否定しがたい。
第一に、テレビやゲームやSNSにばかり夢中では、本を読む時間がなくなる。私たちが子どもだった頃、ほかに楽しいことがないから本を読んだ。テレビやゲームを見る時間が増えれば、本を読まなくなるのは当然のことだ。
だが、テレビやゲーム、SNSの及ぼす悪影響は、それだけではない。私は、これらが孤独な時間を奪うことが、最大の問題点だと考えている。
人間には、孤独な時間が必要だ。絶望し、涙を流し、悔しさをかみしめ、屈辱に震え、寂しさに胸を締め付けられる経験が必要だ。それがあってこそ、自分を見つめ、自分でものを考えようとする。だが、テレビやゲームやSNSがあると、自分の孤独な時間に対峙しようとしなくなる。苦しいことがあるとテレビをつけ、ゲームをして、気晴らしをしてしまう。SNSによって他者と気軽なコミュニケーションをとってしまう。それでは、自分に向き合い、じっくりと物事を考える能力は身につかない。自分で想像して世界を作り上げる能力も身につかない。言語操作能力も身につかない。自分の頭の中で世界を作り上げる楽しさも知ることができない。
したがって、本を好きにさせようと思ったら、子どもがテレビを見つづけ、ゲームをしつづけ、SNSにのめりこむのを許すべきではない。一定時間以上は、テレビやIT機器の前から離れるように指導するべきだ。あるいは、週に一日か二日、テレビやIT機器をオフにする日を設けるのもいいだろう。
もちろん、テレビやゲームやSNSに費やしていた時間をずっと読書に使うわけではないだろう。だが、そうであったとしても、テレビやIT機器のない時間をすごすことはけっしてむだなことではない。テレビやゲームやSNSに振り回され、受動的に思考するのではなく、自分で思考する態度を身につける。そうすることによって、自分から読書したい気持ちになってくるはずだ。
六か条 本を捨ててはいけない
本は、まんが雑誌も含めて、できるだけ捨てたり、古本屋に売ったりしないでほしい。たとえ読み終わった本でも、読み終わったマンガ雑誌でも、できるだけ手元においておくことが大事だ。
本も雑誌も、読み捨てるものではない。同じ物語を何度も繰り返し読むうちに、新しい発見をすることがある。作者のちょっとした工夫でおもしろくなったり、ちょっとした失敗で台無しになったり、といったことが、繰り返し読んでいるうちにわかってくる。はじめは本を一方的に受け取るだけだったのが、繰り返し読むことで、本に参加して、本を批判的に読めるようになる。そして、本に対する愛情が深まっていく。
それに、一度おもしろくなくて途中で放棄した本でも、誰か友達が読んでおもしろかったと聞くと、もう一度読んでみようという気になるものだ。せっかくそんな気持ちになったときに、その本を捨てていたのでは、チャンスを失ってしまう。
それどころか、一度読んだ本を、それから数年後、数十年後に読んで、まったく別の発見をすることもまれではないはずだ。本の中にもっともっと深い意味があったことに気づくことは大いにあるだろう。
本は使い捨ての消費財ではない。私は本をいうものを一種の「生き物」と考えている。そのつもりになれば、さまざまなことを引き出せ、楽しませ、考えさせてくれる小さな生き物なのだ。それをおいそれと捨てることはできないはずだ。
七か条 本を与えっぱなしではいけない
子どもに干渉しすぎるのも禁物だが、ほうりっぱなしなのも禁物だ。もちろん、子どもが小学生ならともかく、中学生、高校生にもなると、親との会話も減り、親のいうことなど聞かなくなる。だが、たとえそうであったにしても、本のことを話題にしてほしい。
お子さんが本を読んだら、是非とも、その本について話を交わしてほしい。すべての本について話す必要はない。たまにでも、「どんなところがおもしろかったの?」「なぜ、この子はそんなことをしたんだろうね?」「えっちゃんだったら、どうする?」というような質問をするとよい。あるいは、子どもが中学生以上であれば、「それ、私も読んでみたいんだけど、お母さんにもおもしろいかなあ」「その本のこと、テレビで見たんだけど、本当におもしろいの?」というようないい方でもいいだろう。
ただし、もちろん授業中の先生のような態度で答えを求めるべきではない。友人として尋ねるような雰囲気が望ましい。そうして尋ねれば、子どもは本の感想を素直に口にするだろう。おもしろさやつまらなさを人に伝えたいと必ず思っているはずだ。だから、何か感動したところがあれば、なにかしら話したがる。たとえ親にはあまりしゃべらないにしても、友達にはしゃべりたがるだろう。
八か条 感想文を無理に書かせてはいけない
読書感想文が日本ではさかんだ。学校では、どのように書けばよいのかをきちんと指導しないまま、「自由に書きなさい」という形で読書感想文の宿題を出す。そして、そうすることで本に親しませようとする。それをすればするほど、本嫌いをふやしているのに、それをやめない。
もし、本を読んでも何かの発見をしていていれば、自分から書きたい気になる。「ああ、なるほど、この作者はこんなことを言いたいのか。でも、それにはぼくは反対だな」、「作者がこう書いたのは、こんなことを言いたかったからなんだ」というような発見さえあれば、感想文は苦痛ではない。
だが、本を読んで何も発見がなかったとすると、感想文を書くというのは辛い作業だろう。しかも、どう書けば感想文らしくなるのかもわからない。それでは、本を読むこと自体が嫌いになるのは目に見えている。
感想文を書かせたかったら、子どもと話をして、その本を読んで何を感じたか、話をさせてみることだ。そして、子どもがその本から何を発見したのかを口で言わせてみるといい。たとえ、発見らしいものがなかったとして、何とか、発見を導き出すべきだ。すくなくとも、うまく子どもを誘導して、自分が発見したような気持ちにさせる。そうすれば、子どもはそれを文章に書きたくなるものだ。その上で、先ほど説明したようなホップ・ステップ・ジャンプ・着地という形に添って書くよう指導すると、何とか書ける。字数は不足し、場合によっては面白みにない文章かもしれないが、間違いなく、それらしいものは書ける。あとは、それを数回繰り返すことで、感想文は書けるようになる。
だが、私は感想文よりももっと力がつくのは、本の真似をした文章を書かせてみることだと考えている。おもしろいSFの物語を読ませたら、自分なりに空想させてみる。まずは口でアイデアを言わせてみる。おもしろそうだったら、文章に書かせてみる。もちろん、その「出来」は、あまり気にする必要はない。むしろ、書くことによって、本に対する関心が深まり、受け身ではなく能動的に本に参加するようになる。
もし、子どもが自分でアイデアを思いつかない場合は、親がアイデアを出すのでもよい。そして、「こんな話を思いついたんだけど、おもしろいかな」というように、子どもに批評を求めてみる。そうすることで、子どもは、「自分だったら、こうするのに」というように考えて、創作意欲がくすぐられるはずだ。たとえ、そうならなくても、少なくとも批評能力はつく。
九か条 自分は読まないで、子どもに本を読めといってはいけない
あたりまえのことだが、子どもを本好きにするからには、自分も本を読んでいるところを見せる必要がある。自分は本を読まずに子どもにだけ本を読ませようとしても、説得力を持たない。
場合によっては、子どもが読んでいるのと同じ本を読んでみるのもいいだろう。そして、ストーリーなどについて話し合うのもいい。あるいは、もちろん、まったく子どもと無関係な本でもかまわない。いずれにせよ、親が日常的に本に親しんでいること、文化的で知的な環境であることが、大事なことだ。
ブルデューを引くまでもなく、親が具体的に何か教えたり、子どもに良い教育を与えること以上に、家庭環境こそが子どもに大きな影響を与える。親が文学やクラシック音楽に親しむような知的な環境で育った子どもは、子どもも知的なことに関心を持つようになることが多い。
したがって、家庭全体が文化的なものに親しみ、本を読み、演奏会にいくといった雰囲気であることが望ましい。もし、そうでなかったら、今からでも遅くはないので、そのような雰囲気に近づけるべきだ。
十か条 「でなくてはいけない」と考えてはいけない
ここまで、「してはいけない」ことを羅列してきた。
だが、誤解しないでいただきたい。ここに挙げたことはいずれも親としての心がまえであって、本の読みかたではない。子どもに対する態度でもない。
本の読みかたには様々ある。一つの読みかたが正しいわけではない。本に感動を求める子ども、情報を求める子ども、本を自分が考えるきっかけにする子ども、本にほれ込む子どもなど、様々だ。子どもに対しては、「こうでなくてはいけない」というように決め付けるべきではない。
それを踏まえた上で、出来るだけ子どもの個性にしたがって、子どもにあった読みかたを認めるべきだ。そうしてこそ、子どもは本好きになる。読書というのは、個性を伸ばし、能力を伸ばすものなのだ。子どもの個性を見極めて、うまく導く必要がある。
以上の点を守れば、おそらく子どもは本に親しむだろう。そして、知識を増やし、読解力を伸ばし、文章を書くことをいやがらなくなるだろう。
(樋口裕一)
*樋口裕一『日本語力崩壊』中公新書ラクレ2001年、p178~194を一部改変