すべての本は良書である
世の中にはたくさんの本が出ている。歴史に残るような思想書から、学術的な専門書、エンターテインメント本、読み捨てのいかがわしい本など様々だ。だが、それらすべてが良書だと考えるべきだと私は思っている。
もちろん、つまらない本もある。「そんなこと、わざわざ言ってもらわなくても、俺はとっくに知ってるよ」と言いたくなることしか書かれていない本もある。主張は目新しいが、その正当性にまったく説得力を感じない本もある。まったく面白くない本もある。思想的にゆがんでいるとしか思えない本も多い。だが、それがつまらないのは、私にとってに過ぎない。

本には対象がある
本には対象がある。若者向きだったり、高齢者向きだったり、女性向きだったり、男性向きだったり、プロ向きだったり、初心者向きだったり。70過ぎである私が女性向けのファッションの本を読んだら、当然、つまらないと思うだろう。普通の小学生がドストエフスキーを読んでもつまらないと思うだろう。
それゆえ、私が驚嘆して読んだ本をほかの人がつまらないと腐し、逆に、私が読む価値がないと断じた本を座右の書にしている人がいるといった事態が起こる。
本というのは、人間と同じようなもの
本というのは、人間と同じようなものだ。一律の価値によって優劣を決めることはできない。人気者がいるのと同じように、ベストセラーがある。嫌われ者がいるように、誰からも手に取られない本もある。だが、どれもがそれぞれの価値を持っている。それを求めている人の手に求めているときに渡れば、それは良書になる。
それゆえ、私はインターネットの書評サイトなどで、まるで自分を神であるかのように本の優劣を断定しているものには激しい抵抗を感じる。もちろん、書評をするのは悪いことではない。本を批判したりほめたりするのも、もちろん大事なことだ。だが、あくまでもそれは、その人の知識と関心と人柄によっての判断でしかない。つい神の立場でものを言いたくなる気持ちはわからないでもないが、それはあまりに傲慢というものだろう。
私の本も、インターネットの書評サイトでかなり叩かれているものがある。それはそれでやむをえないと思っている。ある程度売れると、それをけなしたがる人間がいるものだ。本をけなすと、自分が著者よりも偉くなったような気がするのだろう。私自身も本を書くようになる前、いや、正直に言うとある程度売れる本を出すようになる前、他人の本をずいぶんけなしたものだ。
ただきわめて心外なのは、ないものねだりをしている評があまりに多いことだ。たとえば、私はある参考書を出している。その趣旨としていることは、「大学の小論文試験に何とか合格できるだけのレベルの小論文が書けるようにするため、最低限これだけの知識は持っていてほしい」という知識を整理した参考書だ。だから、私はその本の中では、敢えて難しいことは書いていない。ところが、その参考書を酷評する書評がある。そして、その評の中には「この本を読んでも、かろうじて合格するくらいの力しかつかない」と書かれている。
私は、まさしくかろうじて合格するくらいの力をつけるためにその本を書いているのだ。かろうじて合格すれば、その本は最高の良書だろう。私がそのような意味で敢えてカットしたことを取り上げて、それが書かれていないからと批判されても、こちらとしては困ってしまう。
そのような身勝手な書評がなんと多いことか。知識のある人間が入門書を幼稚すぎるとけなし、知識のない人間が専門書をわかりにくいとけなす。しかし、それは単に自分の背丈にあっていない本を求めただけのことに過ぎない。きちんと自分の背丈にあった本を探して買うのが、読者の務めだと、私は思う。
誰にでもよい本などは存在しない
本について語るからには、あらゆる本に愛情を持つべきだと私は考えている。そうしてこそ、本を批判する資格を持つと思うのだ。
しかし、それは逆に言うと、誰にでもよい本などは存在しないということだ。たとえば、私はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は世界最高峰の文学作品だと信じている。だが、これが誰に対してもよい本かというとそうではない。もし生半可な知識で読んでしまうと、むしろ有害になるということも考えられる。
本は相手があってこそ、価値を持つ
本は相手があってこそ、価値を持つ。それ自体で価値があるわけではない。読者との関係によって、それが良書になったり、そうでなくなったりする。そうしたことを常に心がけて本に対するべきだと、私は考えている。
(樋口裕一『差がつく読書』角川oneテーマ新書2007年、p19~22一部改変)